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[ 令和2年1月30日(木)、31日(金)で姉妹都市である金沢に訪問してきた。わずか2日だけの時間ではあったが、こってりと凝縮した内容の視察であった。訪問団と金沢市議会の顔合わせ意見交換・交流含めて7つのスケジュールを分単位でこなす。以下は、岸担当の報告様レポートの伐採。流石に疲れた~ ↓↓ 日程:令和2年1月31日(金)午前10時40分~小1時間程視察主体:目黒区 金沢市議会訪問団視察:東山ひがし茶屋街  本日2本目の視察目的地は、金沢市内に現存する“ひがし茶屋街”である。 「弁当忘れても笠わすれるな。」の格言の如く、つい今しがたまで日が射していたと思った途端に、霙混じりの雨に見舞われる、の繰り返しの中での本視察となる。先ずは寒い中にも関わらず、薄着で張りきっておられるボランティドガイドの熟年翁に恐縮しながらも、忙しなく説明を求め、傘を差しつつペンを走らせる。 このエリアは市内にある四つの重要伝統建造物群保存地区の一つに指定されており、綺麗な石畳と無電柱化された古い木造の街並みには、まるで江戸時代にタイムスリップしたかの様な錯覚にとらわれる。大東亜戦争では空襲に遭っていないというのが何よりも良かった点にあげられる。街の歴史としては今年で200年との事。茶屋(※下記参照)とは今でいう風俗店の一種であり、つまりは文化の創造に繋がる源となるのであるが故に、藩行政と脱法、取り締まりの歴史であったそうな。最終的に藩公認の東と西の茶屋街に集約・整備する代わりに税の徴収と街の発展におり込んで来た、という歴史の上に存在しているとの事。建前上、武家と僧侶はNGにて、専ら町人の紡いだ文化の痕跡が現在に伝わっている。最盛期には100を超える茶屋があり、住込みの芸者さん数も100人はいたそうで、金沢を彩る文化の中心であった。現在は約70件のブティックやら土産物屋等の小店舗が連なるものの、“茶屋”そのもの営業は5,6軒のみ。芸者さん数は12,3人が住み込みではない今風な形で継承しているとの事。ちなみに平成27年に新幹線開通する以前は、小売店舗でさえ僅か20店舗程度しか無かったそうである。 現在は東山町会と市の協議会が中心となって町の維持発展が成されている。ココで商売を始めるにも県産以外の商品の取り扱いは出来ないルール他、町会に入会する等の約束事もあり、地域保護と景観保護の観点から厳しく管理されている。時間の都合、町屋の一軒一軒に入って詳細に見学する訳にもいかないのであるが、聞けば町屋の構造としては茶屋としての営業目的で建てられている為、1階は生活の場として作られている一方、2階は社交の場つまり接待用のお座敷であるが故に、区画の一つ一つが独立しており、客同士が鉢合わせない工夫等、細々した配慮がなされているとの事。外からは見えにくい「木虫籠(きむすこ)」と呼ばれる木格子の意匠が風流であった。茶屋と芸者の取りなす非日常の空間に、粋に遊ぶ為に労を惜しまぬ旦那衆によってこの街の文化は醸成されたと理解する。かつての旦那衆という層が未だ存在しているのか不明の中、茶屋文化そのものを継承するという事が極めて難しくなっている現状、そして伝統的建築の“茶屋”が相次いで売りに出されるという衰退期を経て今に姿を残している。直近では、新幹線開通後の観光化と茶屋の町から昼の町化への変化の中でのジレンマの様な印象を概して感じ取る事が出来た。また、ソフトウェアである芸子さんの育成にも時間がかかる上に、修行その物も大変厳しいので後継者の育成も課題であるとの事であった。参考:Wikipediaより抜粋“お茶屋”は芸妓を呼ぶ店であり、風俗営業に該当する。料亭(料理屋)との違いは厨房がなく、店で調理した料理を提供しないこと(仕出し屋などから取り寄せる)である。 ]

令和2年1月30日(木)、31日(金)で姉妹都市である金沢に訪問してきた。わずか2日だけの時間ではあったが、こってりと凝縮した内容の視察であった。訪問団と金沢市議会の顔合わせ意見交換・交流含めて7つのスケジュールを分単位でこなす。以下は、岸担当の報告様レポートの伐採。流石に疲れた~ ↓↓ 日程:令和2年1月31日(金)午前10時40分~小1時間程視察主体:目黒区 金沢市議会訪問団視察:東山ひがし茶屋街  本日2本目の視察目的地は、金沢市内に現存する“ひがし茶屋街”である。 「弁当忘れても笠わすれるな。」の格言の如く、つい今しがたまで日が射していたと思った途端に、霙混じりの雨に見舞われる、の繰り返しの中での本視察となる。先ずは寒い中にも関わらず、薄着で張りきっておられるボランティドガイドの熟年翁に恐縮しながらも、忙しなく説明を求め、傘を差しつつペンを走らせる。 このエリアは市内にある四つの重要伝統建造物群保存地区の一つに指定されており、綺麗な石畳と無電柱化された古い木造の街並みには、まるで江戸時代にタイムスリップしたかの様な錯覚にとらわれる。大東亜戦争では空襲に遭っていないというのが何よりも良かった点にあげられる。街の歴史としては今年で200年との事。茶屋(※下記参照)とは今でいう風俗店の一種であり、つまりは文化の創造に繋がる源となるのであるが故に、藩行政と脱法、取り締まりの歴史であったそうな。最終的に藩公認の東と西の茶屋街に集約・整備する代わりに税の徴収と街の発展におり込んで来た、という歴史の上に存在しているとの事。建前上、武家と僧侶はNGにて、専ら町人の紡いだ文化の痕跡が現在に伝わっている。最盛期には100を超える茶屋があり、住込みの芸者さん数も100人はいたそうで、金沢を彩る文化の中心であった。現在は約70件のブティックやら土産物屋等の小店舗が連なるものの、“茶屋”そのもの営業は5,6軒のみ。芸者さん数は12,3人が住み込みではない今風な形で継承しているとの事。ちなみに平成27年に新幹線開通する以前は、小売店舗でさえ僅か20店舗程度しか無かったそうである。 現在は東山町会と市の協議会が中心となって町の維持発展が成されている。ココで商売を始めるにも県産以外の商品の取り扱いは出来ないルール他、町会に入会する等の約束事もあり、地域保護と景観保護の観点から厳しく管理されている。時間の都合、町屋の一軒一軒に入って詳細に見学する訳にもいかないのであるが、聞けば町屋の構造としては茶屋としての営業目的で建てられている為、1階は生活の場として作られている一方、2階は社交の場つまり接待用のお座敷であるが故に、区画の一つ一つが独立しており、客同士が鉢合わせない工夫等、細々した配慮がなされているとの事。外からは見えにくい「木虫籠(きむすこ)」と呼ばれる木格子の意匠が風流であった。茶屋と芸者の取りなす非日常の空間に、粋に遊ぶ為に労を惜しまぬ旦那衆によってこの街の文化は醸成されたと理解する。かつての旦那衆という層が未だ存在しているのか不明の中、茶屋文化そのものを継承するという事が極めて難しくなっている現状、そして伝統的建築の“茶屋”が相次いで売りに出されるという衰退期を経て今に姿を残している。直近では、新幹線開通後の観光化と茶屋の町から昼の町化への変化の中でのジレンマの様な印象を概して感じ取る事が出来た。また、ソフトウェアである芸子さんの育成にも時間がかかる上に、修行その物も大変厳しいので後継者の育成も課題であるとの事であった。参考:Wikipediaより抜粋“お茶屋”は芸妓を呼ぶ店であり、風俗営業に該当する。料亭(料理屋)との違いは厨房がなく、店で調理した料理を提供しないこと(仕出し屋などから取り寄せる)である。

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