エピソード

幼少時代

・1973年8月23日、東京都目黒区生まれ。2歳年下の妹との2人兄妹。
・両親の他、厳格であった元海軍の祖父、京都生まれの自己主張の強い祖母、犬・猫と、ユニークな家庭環境の中で育つ。

兄妹

小学校時代

・子供の多い時代ではあったが、祖父の影響の強い教育方針のもと学年に1クラスしかないトキワ松学園小学校に入学。6年間、同じ仲間と過ごす。今でも全員の出席番号順を覚えている。
・絵にかいた様な健康優良児で、目黒区の水泳大会では優勝したことも。ファミコンが出まわりだした当時ではあったが、外に出て夕方まで帰らない子であった。
・やはり祖父の影響か、当時にしては珍しい日本ハムファイターズファン。今でもアンチ巨人。
・犬猫が好きすぎて、当時の映画に影響され南極観測隊かムツゴロウ王国で働く事が夢だった。

健康優良児

中高時代

・再度祖父の影響により寄宿舎のある中高一貫の学校に進学し、6年間寮生活をする。
・中学はテニス部、高校時代は水泳部に所属する。スポーツデブ真っ盛り、ついたあだ名は「コニキシ」。校内柔道大会では団体戦にいつも選出されていた。
・校内の競歩大会で走って1位になったり、怒られている時に“大おなら”をしたりして、体育の先生と宿舎の先生には度々お世話になった。大らかな時代であった。
・得意科目は美術に理科と社会。それだけで受験できる大学が無く、進学を諦めかけた事も。

大学時代

・2浪の末、山形県に在る美術大学に進学するも、絵を描く訓練をしたことが無い為、ひと月で落ちこぼれに。
・仕方がないので学生生活を充実させる方向に梶を切り、サーフィン部創部、イベント企画サークル設立、大学祭実行委員等をして過ごす。ナホトカ号重油流出事故のボランティアにも参加する。

サーフィン部

・防災や救命(First Aid)を大事にする観点もこの頃に形成され、赤十字社の救急法・蘇生法の資格を取得する。
・それらが功を奏してか、専門課程においては広告やデザイン計画を練る学科を選択する。「やまがた宝さがし」というプログラムで実行委員長を拝命。一応、少しの英語と写真技術の勉強をしており、フォトジャーナリストになろうという意識を持つに至る。
・長野五輪の直前、加熱する地元のスキー愛好家の若者達を1つにまとめ上げ、SAJ全日本スキー連盟公認クラブ「Air Pirates 山形」(以下、AP山形)を設立する。クラブリーダーに選出される。(有望な選手は自分たち世代ではなく、20年後にその子供達世代になってようやく育つ。)
・アルバイト掛け持ちで貯金した現金でニュージーランドでのスキーキャンプに参加するも、滑走中の事故で背骨を圧迫骨折する。100キロ離れた町の病院までドクターヘリで搬送される。不幸中の幸いにて大事には至らず1日で退院するが、選手としては限界を悟り引退する。
・先の”AP山形”主宰の形をとり、フリースタイルスキーの競技大会「第1回 山形モーグルフェスティバル」を蔵王温泉スキー場で開催(1998年4月)する。一連の企画からイベント開催までのプロセスを”地域のデザイン”として発表し、卒業制作展にて優秀作品賞を受賞する。

山形モーグルフェスタの実行委員スタッフ

・同級生の実家のラーメン店で4年間アルバイトをする。毎日、賄いごはんを食べに行っていた。(働いていない日も。。)

ラーメン屋

フリーランスデザイナー

・個人事業として広告制作や、インターネットが普及する前のWebデザインの走りの様な仕事をしてみるが、平成11年の東京都知事選挙で石原慎太郎選挙対策本部にご縁が出来た事により、初めて国や地域をデザインするという事に方向性を見出だす。
・1999年の後半から2000年初頭にかけては、カメラとバックパック一つでアジアの貧民街中心に一人旅し、最終的に米国を目指す。無知故に、ピューリツァー賞を目指すジャーナリストになりたかった。

米国での学生生活

・西海岸に住む大叔母の家に転がり込むも、東海岸にあこがれを抱き、ヒッチハイクと大陸横断鉄道アムトラックでNYを目指す。
・電車の中で知り合った移民のおじさんに教えられた通りに、治安のよくないハーレム地区にアパートを見つける。当時で築130年と言っていた、ビクトリア建築の月380ドルのボロアパートだった。ジュリアーニ市長のもと、治安は良くなりかけと言えど、黒人しか住んでいない地区にアジア人が一人紛れ込んできた状態。怖い目には通算で4度あった。(火事と暴漢、強盗、アパート下の路上での殺人。)大きなところでは911テロも大停電も経験する。

・英語漬け、ビザ取得と不法労働直前とのギリギリの生活が始まる。韓国人経営の日本食レストランで賄ってもらっていた。
・ピューリツァー賞を主宰するコロンビア大学のジャーナリズム大学院には門前払いされるも、割とすぐに公立のNY市立大学に学士編入させてもらう。
・編入学当初は政治学部の授業を数多く履修するも、英語と課題論文の数についてゆけず、2年経った頃に経済学部に転部する事を余儀なくされる。一から経済の授業を履修し直す。統計学と微分積分、会計学には手を焼いた。多くの学生が育児の傍らや仕事の傍らにパートタイムで大学に通う多様性、人種や年齢、国籍、宗教さえ問わない公立学校の懐の深さと可能性の高さ、規模の大きさに感銘する。
・社交ダンスにはこの頃に出会った。プエルトリコ出身のクラスメートにサルサパーティーに連れて行ってもらったのがキッカケだった。ハマった。インターナショナルなパーティーでは宴もたけなわの頃に必ずラテン系移民の生徒達がテーブルをどかせてパートナーダンスを始め、残ったアジア留学生達は酔った上でのテーブル政治談議を始める。そこには理由もへったくれもなく、大抵が日本の近代史がやり玉に上がるのが常態化していた。そんなのに飽きた僕はと言えば、近隣の東アジア人留学生達に囲まれつつ四面楚歌の中、ダンスの輪の中央で踊り続ける目の青いクリスティーナと踊ったら楽しいだろうな~、、等と考えていた。
・2度目の受験にてコロンビア大学の国際・行政学大学院への入学を許される。その頃には、喰らいつけば根性で何とかなる感覚を自身の経験で体得していた為、卒業も出来た。多くの留学生達は中央省庁の役人達であり既に皆優秀であったが、どこの馬の骨とも分からない様な自分は彼らとは異なった類の貢献を、社会や母校に対してしたいと漠然と思った。

 

コロンビア大学院 卒業式

・日本や地域社会をデザインする、政治家になりたいと思う様になっていた。

敬愛する日本文学者ドナルド・キーン先生

会社員時代

・帰国、間もなくイオン本社より内定を貰い、食品部水産担当者として埼玉のショッピングセンターに配属が決まる。仕入れた素材に対して付加価値を付けて少しの利益を確保する、いわゆる小売り・流通の基礎を叩き込まれる1年間であった。スルメイカの皮むきと銀鮭のカット、対面販売(へーい、いらっしゃい!今日の魚はお値打ちだよ!)、商品部との折衝や発注業務を担当する機会が多かった。。

イオン入社

イオンSC魚屋

秘書として

・近代日本政治史上初の政権交代が起こるかもしれない期待に世間が沸き、自身も政治業界に飛び込む。
・議員のサポートにて、議会や委員会にはじまり、部門会議、事業仕分け、検査検定資格認定に関する小委員会、海上警察権ワーキングチーム等、議員立法補助に至るまでの密度の濃い時間を秘書として過ごす。

議員会館にて国会対策

・衆・参含め、地元担当から国会担当まで幅広く務めるも、2012年の政権逆交代によって失職。

再び会社員

・同じく失職した秘書仲間の起業幇助にて軽貨物輸送会社設立を手伝う。売り上げ確保の為に配達ドライバーまで請け負う。新宿・四谷エリアにて1日平均130個の配送をするも、会社を黒字にする事が出来なかった。

軽貨物輸送の下請けにて配送担当

・その後、製薬・医療専門の人材派遣会社に就職する。
・保育士派遣専門の部署を立上げ時にマネージャーを拝命する。お付き合いした施設は40園、保育士さんは60名を超え、1年半で黒字が出る部署にまでに育て上げる。

強い志を持ち続け

・平成28年の参議院選挙スタッフを皮切りに、民進党本部国際局嘱託職、東京都連から都議会民進党政策調査会へと特別職員として歴任する。都議会政調では築地市場の豊洲移転のプロジェクトチームに奉職。都議会百条委員会開催時の質問の洗い出し作業に精力を注ぎ込む。
・平成29年からは政策担当秘書として、元復興大臣や元文部科学大臣の事務所に勤務する。
・福島第一原発を地元に持つ福島5区では、直視できない程の、未だ終わっていない不都合な現実の数々を垣間見るも、同じ日本国民であれど当事者ではない自身の無力さに直面する。
・三重県での単身赴任中、人生の残りの時間を何に使うか他、独り身で頑張る妻の苦労を真摯に考える。

・過去から現在にかけて目黒に伝わる継承すべき物事、時代の推移ととも新しく目黒に求められる未知の物事を見据え、次の世代にバトンをつなげる事を使命と勝手ながら認識し、出馬を決意する。

目黒区にて政治活動開始

趣味の四国遍路 12年かけて9回目にしてやっと1周、歩いて続けています

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