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[ 【最後の巨星】~石原さんのこと~氏がご逝去され、主に都知事時代の功績に関して正負の両評価も出そろっていると思うので、それらに関しては割愛する。氏との関わりに関して備忘録まで。氏の父性としての存在の大きさは、あの時代の日本には必要とされていたと思うし、氏の憂国の気持ちに応えたかったのは、単に自分が若かっただけなのてはなく、義侠心のある多くの人に共通する想いであったはずである。1999年の東京都知事選挙の折、石原選対の遊説隊の1人として、選挙活動に当事側の人間として参加した。「今時住み込みって時代でもないし、秘書見習という”書生”で良いのではないか?」そんな言葉で、その気になっていた。選挙戦も中盤にさし掛かり、自分がその日担当した上野公園正面口での街頭演説の折、街宣車からの呼びかけに、「!!」地鳴りの様に都民の声が打ち戻されて来たのを覚えている。今思えば、あれは節目が変わった瞬間だったのだろう。閉塞した世の中が変わるのではないか!?見えない何か新しい時代をまた創り出しているのではないか!?そんなお手伝いの一端をしている様で気分が高揚した。以来、氏の言葉に出てくる本を一生懸命読んで勉強した。「豊穣の海」三島由紀夫氏、「馬車は走る」沢木幸太郎氏、「小説吉田学校」戸川猪佐武氏、「坂の上の雲」司馬遼太郎氏、「亡国の徒に問う」、「狂った果実」、「わが人生時の時」、これらは若い時分に衝撃的な作品達であった。ある時、「氏の長男である杉並の代議士の秘書にならないか?」とのお誘いも頂いたが、氏とのそれまでの接点により、もっと自分が勉強したいと思う様になっていた事と、選挙戦を通して長男がキライになっていた為、お断りをした。誰かが「アホな大将 敵より怖い。」とも言っていた。氏の所有するヨット「コンテッサ」号にも乗せてもらった。渡米し、間もなくNY市立大へ編入学した。18年後、築地市場の豊洲移転の責任を巡って、都議会で100条委員会が開催され、2000年代初頭当時に知事をやっていた氏と、副知事であった濱渦氏がやり玉に挙げられていた。どういうご縁か、小生はある政党の都議会政調への応援スタッフとして配属されて質問作りのお手伝いをしたのだが、委員会自体は悪の象徴としての完全なるでっち上げの、吊し上げ弾劾にしか見えなかった。問題だったのは、権限が大きい割に、政策判断の責任の所在が曖昧で、(多くの過去の責任者達は鬼籍に入っており、)政策決定のプロセスさえ伏魔殿から見えてこない事であり、残る文書から状況を推測する事しかできない事であった。特に移転に関しては、諸条件の帰着のタイミングがたまたま石原時代であっただけに過ぎない。瑕疵担保責任や、建屋空洞の隠蔽が争点の1つになった訳だが、全くNonsenseな言いがかり過ぎない。前時代の政策の失敗である、世界都市博の中止とそれに伴う巨額投資損失の穴埋めを、築地市場の売却で穴埋めして辻褄を合わせようとした隠ぺい工作の歴史である。その時系列のプロセスが、積み重ねが重くなり、移転を止められなくなっていたという“流れ”であった。また、汚染土壌の上にはコンクリートの土台で蓋をして安全は担保されていたのであるが、小池劇場ではその責任を”悪人”たる石原氏に追わせようとし、何となくそれに靡いたマスコミと、分かり易く出来上がってしまった社会の風潮・批判には反吐が出る思いであった。その委員会室の外で氏と、濱渦氏とこんな形で再会するとは思わなかった。以来、都の行政と、それを主導した小池知事には不信感しか残っていない。時が経ち、自分も成長(変わり)し、絶対的大黒柱的な印象のまま止まっている氏が鬼籍に入った。25歳の青年は、今48歳の責任世代となった。氏に頂戴した腕時計は、今も冠婚葬祭の時にだけ取り出して大切に使っている。裏にひっそりと”S.Ishihara”と筆記体で彫られているのが、あの頃の誇りである。ご冥福をお祈りする。ありがとうございました。やっと、次世を背負う心の整理は出来きました。元書生 岸大介令和4年2月1日 ]

【最後の巨星】~石原さんのこと~氏がご逝去され、主に都知事時代の功績に関して正負の両評価も出そろっていると思うので、それらに関しては割愛する。氏との関わりに関して備忘録まで。氏の父性としての存在の大きさは、あの時代の日本には必要とされていたと思うし、氏の憂国の気持ちに応えたかったのは、単に自分が若かっただけなのてはなく、義侠心のある多くの人に共通する想いであったはずである。1999年の東京都知事選挙の折、石原選対の遊説隊の1人として、選挙活動に当事側の人間として参加した。「今時住み込みって時代でもないし、秘書見習という”書生”で良いのではないか?」そんな言葉で、その気になっていた。選挙戦も中盤にさし掛かり、自分がその日担当した上野公園正面口での街頭演説の折、街宣車からの呼びかけに、「!!」地鳴りの様に都民の声が打ち戻されて来たのを覚えている。今思えば、あれは節目が変わった瞬間だったのだろう。閉塞した世の中が変わるのではないか!?見えない何か新しい時代をまた創り出しているのではないか!?そんなお手伝いの一端をしている様で気分が高揚した。以来、氏の言葉に出てくる本を一生懸命読んで勉強した。「豊穣の海」三島由紀夫氏、「馬車は走る」沢木幸太郎氏、「小説吉田学校」戸川猪佐武氏、「坂の上の雲」司馬遼太郎氏、「亡国の徒に問う」、「狂った果実」、「わが人生時の時」、これらは若い時分に衝撃的な作品達であった。ある時、「氏の長男である杉並の代議士の秘書にならないか?」とのお誘いも頂いたが、氏とのそれまでの接点により、もっと自分が勉強したいと思う様になっていた事と、選挙戦を通して長男がキライになっていた為、お断りをした。誰かが「アホな大将 敵より怖い。」とも言っていた。氏の所有するヨット「コンテッサ」号にも乗せてもらった。渡米し、間もなくNY市立大へ編入学した。18年後、築地市場の豊洲移転の責任を巡って、都議会で100条委員会が開催され、2000年代初頭当時に知事をやっていた氏と、副知事であった濱渦氏がやり玉に挙げられていた。どういうご縁か、小生はある政党の都議会政調への応援スタッフとして配属されて質問作りのお手伝いをしたのだが、委員会自体は悪の象徴としての完全なるでっち上げの、吊し上げ弾劾にしか見えなかった。問題だったのは、権限が大きい割に、政策判断の責任の所在が曖昧で、(多くの過去の責任者達は鬼籍に入っており、)政策決定のプロセスさえ伏魔殿から見えてこない事であり、残る文書から状況を推測する事しかできない事であった。特に移転に関しては、諸条件の帰着のタイミングがたまたま石原時代であっただけに過ぎない。瑕疵担保責任や、建屋空洞の隠蔽が争点の1つになった訳だが、全くNonsenseな言いがかり過ぎない。前時代の政策の失敗である、世界都市博の中止とそれに伴う巨額投資損失の穴埋めを、築地市場の売却で穴埋めして辻褄を合わせようとした隠ぺい工作の歴史である。その時系列のプロセスが、積み重ねが重くなり、移転を止められなくなっていたという“流れ”であった。また、汚染土壌の上にはコンクリートの土台で蓋をして安全は担保されていたのであるが、小池劇場ではその責任を”悪人”たる石原氏に追わせようとし、何となくそれに靡いたマスコミと、分かり易く出来上がってしまった社会の風潮・批判には反吐が出る思いであった。その委員会室の外で氏と、濱渦氏とこんな形で再会するとは思わなかった。以来、都の行政と、それを主導した小池知事には不信感しか残っていない。時が経ち、自分も成長(変わり)し、絶対的大黒柱的な印象のまま止まっている氏が鬼籍に入った。25歳の青年は、今48歳の責任世代となった。氏に頂戴した腕時計は、今も冠婚葬祭の時にだけ取り出して大切に使っている。裏にひっそりと”S.Ishihara”と筆記体で彫られているのが、あの頃の誇りである。ご冥福をお祈りする。ありがとうございました。やっと、次世を背負う心の整理は出来きました。元書生 岸大介令和4年2月1日
[ 【最後の巨星】~石原さんのこと~氏がご逝去され、主に都知事時代の功績に関して正負の両評価も出そろっていると思うので、それらに関しては割愛する。氏との関わりに関して備忘録まで。氏の父性としての存在の大きさは、あの時代の日本には必要とされていたと思うし、氏の憂国の気持ちに応えたかったのは、単に自分が若かっただけなのてはなく、義侠心のある多くの人に共通する想いであったはずである。1999年の東京都知事選挙の折、石原選対の遊説隊の1人として、選挙活動に当事側の人間として参加した。「今時住み込みって時代でもないし、秘書見習という”書生”で良いのではないか?」そんな言葉で、その気になっていた。選挙戦も中盤にさし掛かり、自分がその日担当した上野公園正面口での街頭演説の折、街宣車からの呼びかけに、「!!」地鳴りの様に都民の声が打ち戻されて来たのを覚えている。今思えば、あれは節目が変わった瞬間だったのだろう。閉塞した世の中が変わるのではないか!?見えない何か新しい時代をまた創り出しているのではないか!?そんなお手伝いの一端をしている様で気分が高揚した。以来、氏の言葉に出てくる本を一生懸命読んで勉強した。「豊穣の海」三島由紀夫氏、「馬車は走る」沢木幸太郎氏、「小説吉田学校」戸川猪佐武氏、「坂の上の雲」司馬遼太郎氏、「亡国の徒に問う」、「狂った果実」、「わが人生時の時」、これらは若い時分に衝撃的な作品達であった。ある時、「氏の長男である杉並の代議士の秘書にならないか?」とのお誘いも頂いたが、氏とのそれまでの接点により、もっと自分が勉強したいと思う様になっていた事と、選挙戦を通して長男がキライになっていた為、お断りをした。誰かが「アホな大将 敵より怖い。」とも言っていた。氏の所有するヨット「コンテッサ」号にも乗せてもらった。渡米し、間もなくNY市立大へ編入学した。18年後、築地市場の豊洲移転の責任を巡って、都議会で100条委員会が開催され、2000年代初頭当時に知事をやっていた氏と、副知事であった濱渦氏がやり玉に挙げられていた。どういうご縁か、小生はある政党の都議会政調への応援スタッフとして配属されて質問作りのお手伝いをしたのだが、委員会自体は悪の象徴としての完全なるでっち上げの、吊し上げ弾劾にしか見えなかった。問題だったのは、権限が大きい割に、政策判断の責任の所在が曖昧で、(多くの過去の責任者達は鬼籍に入っており、)政策決定のプロセスさえ伏魔殿から見えてこない事であり、残る文書から状況を推測する事しかできない事であった。特に移転に関しては、諸条件の帰着のタイミングがたまたま石原時代であっただけに過ぎない。瑕疵担保責任や、建屋空洞の隠蔽が争点の1つになった訳だが、全くNonsenseな言いがかり過ぎない。前時代の政策の失敗である、世界都市博の中止とそれに伴う巨額投資損失の穴埋めを、築地市場の売却で穴埋めして辻褄を合わせようとした隠ぺい工作の歴史である。その時系列のプロセスが、積み重ねが重くなり、移転を止められなくなっていたという“流れ”であった。また、汚染土壌の上にはコンクリートの土台で蓋をして安全は担保されていたのであるが、小池劇場ではその責任を”悪人”たる石原氏に追わせようとし、何となくそれに靡いたマスコミと、分かり易く出来上がってしまった社会の風潮・批判には反吐が出る思いであった。その委員会室の外で氏と、濱渦氏とこんな形で再会するとは思わなかった。以来、都の行政と、それを主導した小池知事には不信感しか残っていない。時が経ち、自分も成長(変わり)し、絶対的大黒柱的な印象のまま止まっている氏が鬼籍に入った。25歳の青年は、今48歳の責任世代となった。氏に頂戴した腕時計は、今も冠婚葬祭の時にだけ取り出して大切に使っている。裏にひっそりと”S.Ishihara”と筆記体で彫られているのが、あの頃の誇りである。ご冥福をお祈りする。ありがとうございました。やっと、次世を背負う心の整理は出来きました。元書生 岸大介令和4年2月1日 ]

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